artist statement

建物を、どう描くか

建築学生だった頃に習ったパース画。デジタルカメラやCADが進化して、手描きドローイングの必要性が低下するばかりだった頃、結局、建築の道には進まなかった私は、フィリピンのセブ州に住んでいました。アメリカ植民期に建てられた瀟洒な「アンセストラル・ホーム」の数々を見せて貰っているうち、ふと、今だからこそ絵に描いておくのが良いような気がして、スケッチブックを開いたのが、今の絵に続いています。

人に見せるためにではなく、自分の記憶のためのスケッチでしたが、時間をかけて描いていると「この材の上にこの材がこう乗っているんだな」「ここで新しい屋根組をこう継ぎ足したのか」と分かり、百年前にその家を建てた人たちへ思いを馳せながら、二次元の画用紙の上に家を建てているような気になれました。

次第に、建築パースではなるべく軽く描くのがよいとされる人物にも興味がわき、冬だからコートを着せて、このコートならこんなマフラーも、実際は大きなトラックが毎日止まっているけれど、こういう小さい車に変えて歩いている人を見せよう、と、写実的なのだけれど厳密には現実ではない絵を描くようになりました。自分で考えて自分で手を動かしているようでいて、(言葉で説明するのが難しいですが)途中からは風景が勝手に出来上がっていくような感じです。

描き終わって絵を眺めていると、技法的にはダメだなと思う箇所があっても、その「実物を元にしつつも本物ではない」風景が現実に存在すること自体になんとはなしにハッピーになり、「本物」の現実も悪くないだろうなと思える気もしてきました。

ちょうどその頃、「実は大きな病気を抱えているが、あなたの絵をみてまだ諦めないで頑張ろうと思った」、「『私の街』をこんなにきれいに描いてくれてありがとう」というコメントを貰うようになり(大体、「こんなに細かく描くのなら写真でいいじゃないか」「これは芸術ではない」と言われることが多いのですが)、「とても写実的だけれど、本物にはない朗らかさ」が必要なのは自分だけではなかったのかなと思いました。

社会には、そして個人の心の内には、大小さまざまな問題がありますが、だからといって私は絵でそれらを表現しようとか、絵を通して問題提起をしようとは思っていません。外がどんな状況でも、絵を描いている時間だけは、ネガティブ感情はありません。実は最近は、ペンを動かしているその瞬間にはポジティブ感情もありません。芸術的にひねりたいとか、創造性に悩むこともなく、「そこに山があるから登る」という例えのように、「そこにこんな建物があるから」、(大げさな表現だけれども)啓示のままに描いています。

だから、絵からその社会的背景や芸術的なメッセージを探求してほしいとは(そんな高尚なことは作者も知らないので)言えません。絵が仕上がった時に私が感じている、とてもシンプルな幸福感を、見た人と共有できれば嬉しいです。「自分の知っているこの風景の、ありふれた日の、ごく普通の風景」への愛着が増すような一枚をこれからも描いていきたいと思っています。

Feb.2015
Kiyoko Yamagcuhi